終末期の人に「ありがとう」をいつ伝えるか。父は病気になってから「延命は(手術をしたとしても)ない」とドクターに言われながら、過ごしてきました。でも悪い言葉は本人には聞こえていないようで、「治る」と信じての闘病姿勢はずっと変わらないものでした。だからこそ「ありがとう」はお別れの時の言葉のように思え、言わないままで共にいつも通り過ごしてきました。でも、いよいよという時期にきたかなと思います。
父が心肺停止から息をふきかえし、今日で5日目になりました。心臓が再び動き出した直後は、痙攣が1分に1-2度と絶え間なく、そのたびに目が「きっ」と見開き苦しそうでした。最初の夜は抗けいれん剤を2種、2度ずつ投与しましたが効き目があまりないまま翌朝を迎えました。2日目、点滴で抗けいれん剤を投与すると徐々に効果して4日目、5日目は目もつむれるようになりました。咽頭がん告知からずっとむくんできた顔も、病気になる前のすっきりした姿に今になってようやく戻ってまいりました。
意識をなくして2日目の深夜のことです。まぶたに何ミリにもなる「透明の膜」がはり(これは目のむくみと言うらしいです)、真っ赤に充血した目で父は天井をみていました。体も眼球も動かない父に、昔の写真をみせました。「これ可笑しいね」等と言いながら1枚ずつ見せていきました。笑っていました。驚くほど表情の変化が分かりました。膜の貼った目と、うごかないで閉じたままの唇で笑っていました。続けて「ありがとう」「みんなそう思っているよ、ありがとう」何度か耳元で繰返して言いました。
この時も私は、今が「ありがとう」を言うべき時か迷いながらでした。まだ戦っている気持ちで「まだ抗がん剤が欲しい」、まだドクターに「どうにかしてください」「患者は私です」「私に聞こえるように話してください」と父は思っているかもしれないと思いました。
結果的にあの夜を逃せば、私の方に後悔が残ったかもしれません。私の「ありがとう、ありがとう」の声掛けに父は、唇をぎゅっとして「泣くまい」と歯をくいしばりこらえていました。忘れられない父の顔です。確かに声は届きました。
次の夜、病院に泊まった妹も「夜中にたくさんお喋りして、父が笑った」と言っていました。4日目、5日目は顔が穏やかになる一方で、目が開く時間はめっきり減りました。聞こえているのかもしれませんがあの表情は二度とみることが出来ないかもしれないと思いました。あの日、あの時「ありがとう」を伝えてよかったと、心から思います。
「意識不明」という状況に、誰でもいつでも陥る可能性がります。また癌という病気に関しては即死が基本的にはなく、少なからず時間が与えられます。どうそれを過ごしていくか、広い意味で問われる病でもあります。
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